翌日。
東寺へ向かった。
そこで、薬師如来を見る。
笑えた。彼にそっくりだったから。
それで、なんかわかった。
彼の守護は薬師如来。
ラファエルと、薬師如来は同じなんだね。
東寺の日光菩薩は、私が最初にもらった絵の観音様の顔とそっくりと思った。
2018年から、2019年への移り変わりの時、こう感受しています。
「新しい太陽が昇る」
過去生が月なら、
月が終わり、太陽が始まる。
私が月と太陽と両方やれると、
きっと彼は、薬師如来になれるんだなって思った。
月光菩薩に値する人がいるの?と聞くと違うんだっていうから、それでなんとなくそう思ったんだ。
私はタヒチのフェーズがきてる。
つまり悲しかった過去生が終わり、喜びに生きていくフェーズが来ていた。
ものすごい圧を受けながらね。
こう感じる。
陰陽融合すると、ゼロになり、
宇宙空間ができる。
それから、日光月光合わさると、
浄化して、薬師如来つまり、癒しパワーが発現する。
その後、この日の一番の目的地、
出雲大神宮へ向かった。
籠神社は、元伊勢と言われている。
出雲大神宮は、元出雲だ。
伊勢が終わり、出雲が立ち上がる、も
私が感受していたことだ。
殿姫の足跡、涙の伊勢ラインが終わり
ハワイやタヒチからの喜びの出雲ラインが立ち上がる、って感じだった。
なんでだろう?って思ってたけど、
このあと謎が解ける。
出雲大神宮へ着くと、まずは奉納された曼荼羅の絵を見に行った。
姐さんは、この絵を見る人は、変化したり泣くか人もいると言っていて、
その絵を見て、なぜかすぐにわかった。
それは、エネルギーの乗った、陰陽統合の絵だったからだ。
降ろして描いている絵だと伝わってくる。
姐さんが尋ねた人がいた。
その人にお会いして、お話をすることになった。
宮司さんと会うと、これもすぐにわかる。
ただものではない。笑
そう思って、その人のお話を聞くと、霊能者に弟子入りすることになって、その教えを受けていたりしたようだ。
私は宮司さんにスキャンされたのを感じていた。
その宮司さんから、伝えられたことに、
私はまた驚く。
出雲族の話だ。
出雲族は渡来人であること。
それから、籠神社は、かつて出雲族が暮らしていた場所だと言った。
そのリーダーとなる人と、妻の話を聞いた。子どもを産んでと言う話をする宮司さん。
妻は私だ、と思った。
「ここで、子どもを産んだ」
恵比寿神社の声はこれのことだ。
宮司さんの話が、昨日、私が籠神社で感じたことの解説になっていた。
また驚きの中にいた。
そして、出雲族の足跡を、順番に話し始めた。
大分、新潟、青森、天橋立、諏訪、現在の島根など。
ほんとうの歴史は、次代の権力者によって隠されることがあるが、正しい出雲族の歴史を、末裔が語り継いでいて、今も語り部がいるという話もしてくれた。
その末裔の語り部が、
現在住んでいる土地は、
私が行くと言われたところであり、
最初に住もうとして飛ばされたところであり、
現在、彼が住んでいるところだった。
驚いた。
私が歩いてきた土地は、
出雲族の足跡だったのだ。
昨日、ここに住んでいたと思った籠神社の場所は、出雲族の暮らすところだった。
そして、古事記などに出てくる神様の名前は、当時の役職名でもあることがあると教えてくれる。
ここで、唐突に、新潟に彼と旅行することになった、謎が解けた。
私は宮司さんに聞いた。
どうして、今出雲なのか?
すると、
「出雲族は、肌の色が違っても、言葉が違っても、一度家族になれば分け隔てなく大切にした民族だそうです。
調和ですね」と言った。
大和民族は、戦争の歴史だ。
その後、宮司さんが案内してくれて、
出雲大神宮の奥の院に行くと、ストーンサークルのような磐座があり、やはり宇宙を感じたのだった。
ここで、交信してそう〜〜〜。
そのあと、気になる大きな岩の前で
たってじっとしていたら、
入れないように縄がかかっていたけれど、
宮司さんが入ってもいいよと言ってくれて、
近くでその岩を感じさせてくれた。
「私はとても出雲族に縁があると思います」
というと、
宮司さんは、そうでしょうね、と言っていた。
私はこの旅の展開に、放心状態。
わかっているんだけど、わかっていてもやっぱり驚くものは驚くのだ。
いろいろな答えがやってきていた。
彼との最初の旅の新潟にもなぜ行ったのかわかったし、ことあるごとにやってくる、たくさんの言葉に込められていることは、一つのことを指している。
いずれ書きます。
姐さんと夕飯を食べて、帰り道。
ストリートの詩人に会う。
姐さんが、その詩人に頼んで、詩を書いてもらっているのを見ていたら、
この人チャネラーだと思った。
私も書いて欲しくなって頼んだ。
でも、詩を書く色紙がなくなったとのことで、半紙に書くけどいいか?と聞かれる。
もちろんオッケー。
虹の描かれた詩は素晴らしく、
嬉しくて満足だったのに、
半紙が折れないようにと、詩人の作品をつけてくれた。
後々、これがキーワードとなる。
その色紙にはこうあった。
「人間五十年 下天のうちにくらぶれば
夢幻の如くなり
一度生を得て 滅せぬもののあるべきか」
織田信長が好んだ歌だ。