I Love Serendipity.

私のツイン体験記

自愛は慈愛

愛しいと可愛い

 

自己犠牲のカルマ、救済のカルマがあって、

特大カルマとして、

この昇華について巻き起こってきてます。

 

やっぱ、さすがラファエルくんだわ。

このカルマの昇華は、一番深いテーマだ。

前世の時点で、闇のターンをやり切ってたんだと思う。

密に一緒に過ごした3ヶ月の間に、

深い繋がりがあった。

お互いにこれまで、

誰にも見せなかった姿だったと思う。

会った日1日、1日がとても密度が濃かった。

話した数時間が、密度が濃かった。

まるで何年もの時をシェアするように、

全部の人生の話を聞くかのようだったからね。

小さい頃の彼も見せてもらったし、話も聞いた。

彼も私も一生懸命に自分の本当に思うことを話してたけど、

ここ最近、それすらわからなくなってた。

これは私の痛みの昇華であり、逃げでもあった。

 

痛みから逃げずに

ここと向き合い、起こることに抵抗せず、

受け入れてくる時、

無から起こってくることがあります。

私には見えてるものが増えてきた。

 

自己の課題をやってきて、

その後に魂の課題がくる。

魂の課題をクリアしていくのは、

自己が育ってないとクリアできないものがある。

 

それは、白山の登山でシェアしたように、

この先どれくらい続くのかもわからない、

その中で、自分を頼りにし、自分で答えを出し、

歩み続けるという、自己信頼なのだ。

あの登山の時に、身体への信頼のみが、

歩みを進めるんだと実感したのだ。

苦しいからといって、先が見えないからといって、そこで諦めれば、

私は室堂に辿り着けずに、食べ物もない、

水もない、電気もない、電波もない、

そこにいるしかなかった。

前に進むしかなくて、

呼吸と身体に集中するだけになった。

この苦しみは犠牲ではないよね。

私は行きたくていったし、そのプロセスで

目にした景色は一度も見たことがなかった、

美しい世界だったから。

嫌なことはやらないっていうのは、

犠牲をしないっていうこと。

楽してればいいというわけじゃない。

行きたい道に、困難があることだってある。

魂のプロセスを、私はよく登山に例えるけど、

こういうことだなって思います。

 

彼は私に居続けてて、執着でもない。

諦めという気持ちにも近いのかもしれない。

忘れることはないのかもしれない。

人格というより、存在として居続けている。

 

私たちの間にあるカルマがあった。

未精算の部分があり、

それは精算されたのかもしれない。

 

そうだよ。あるよ。

私の弱さを浮き彫りにした。

私の魂の弱点。

私のカルマだ。

振り返れば、あの離れる時は、

私はただ、彼から愛されたかったんだな。

 

それは愛してくれなかったというわけじゃなく

(むしろ彼は、私の本当の姿を見てたし、私が封じてた私の魅力っていうのかな、それに反応してた)

愛されることが傷であり、恐怖であり、

それがフラクタルのように

たくさんの転生においてそうなってる。

たくさんの転生においてそうなってるから、

根深く深いカルマになってる。

この傷の癒しと克服だね。

並大抵ではないんですよ。

魂の根深いカルマを昇華することは。

 

すべて依存なんだ。

私の恐怖の源にあるのは、依存なんだ。

 

取り憑かれるも依存されると同じです。

 

それによって自分を見失い、

命を失う恐怖があった。

それを彼は、その姿を私に見せつけた。

魂の傷となった原因、私が受け入れるべきではなかったのに、(自分への自尊心と無条件の愛からいったらやるべきではなかったこと)受け入れてきたもの

それを全部、彼が現した。

昇華した、と思ってたけれど、手放した後に、

それこそ見えてなかったところが大きく出てきたのだ。

(私、びっくりしてるのですね。盲点になってた部分が統合した後に出てきたものは、たぶん、彼の魂の姿とぴったり一致してるのだ。。)

 

人間も霊も同じである。

当たり前で、次元が違うだけだからです。

 

私のプロセスのタイミングは、

地球の次元上昇とも連動してるなと思います。

 

依存する方の克服の後に、

依存される方の昇華がきている。

 

まるで確認かのように、10年前の

ちょうど2012年だね、

その時の自分がいたところ、関わってた人、

その頃のわたしのような再現を体験しました。

カルマメイトのエネルギーの働きがよくわかる出来事で、そこに引き込まれることなく、

距離が取れる私を確認することになったし、

相変わらず私を見守る江ノ島をみて、

感謝が心から溢れて、溢れて仕方なかった。

その当時、

「真理はあなたを自由にする」

とメッセージが来てた。

私のアセンションはあの頃から始まってたんだ。

10年後、その通りでした。

世間の常識、縛り合う関係の中で、

がんじがらめだった私に言いたい。

当時絶望してた望みは、今ほとんどが叶っている。

いまは、まるで、この10年前に戻ってきたようでもあるけれど、感じ方が真逆に変わってるのだ。

反転、反転。

宇宙の法則。

 

私に今、起こってきていることは、

何もしないということです。

この流れに居続けてる。流れがそうなってる。

 

無抵抗になり、抗わずに受け入れることで、

無から起こってくることがあって、

その中での変化が、

私のカルマの昇華になってる。

 

同じように返すことができない人に、

慈悲を向けてきたことでできた傷が傷んでいる。

整体師ジーザスが半年前に私に伝えた、ハートを癒そうと思った方がいいよ、ということ、

私は気がついてなかったけど、このことなんだ。

(この時に妹が、私に対して甘えから、異常なくらいのものすごい攻撃をしてきていた)

そのハートの傷に一番、遠慮なく出せることをしたのがラファエルくんだ。

突然きた離れることに私は混乱してて(だけど、魂は冷静だったように思う。来る時がきたな的な)

結果的に喧嘩になったけど、あの時も、私は人を傷つけないように伝えるために言いたいことを言い切れない私が、止まらずに、相手のことを考えずにそのまま全部出していったのも、ラファエルくんだからだった。

 

身体の同じ箇所が繰り返し、まだ痛む。

私の霊体を切られた箇所だ。

(ちなみに姫の自害の傷も浮き出てきてて、どこか特定できてるが、もうだいぶ薄らいだ)

ここは、嫉妬のエネルギーで切られてるので、

嫉妬のエネルギーが残り、これに引き寄せられて同じような波動のものが私にやってくる。

私のものではないものです。

相手のカルマをなすりつけられたようなもの。

だから相手はスッキリするの。

 

呪詛返しや、跳ね除けること、

私が持ってきたカルマの反対側をやることで、

私の魂の望みを叶えていってるのだ。

 

こうなって初めて、私の魂がどれだけ

傷んできたのかがようやくわかりました。

カルマのことは、

すぐに自覚できないことが多い。

そして、それを受け居れるじぶんや環境とかが

整った時に浮き出てきたりするものです。

滲み出るように涙が出てくるたび、

実感できるように浮上してきてるのだ。

私必死だったもんな。

傷ついてる人を抱きしめて、

その人たちは私を頼った。

 

私自身は、自分で立てるようになりたくて、

それを導き促す人に出会ってきたから、

自分で自分を引き受けると決めた時から、

覚悟した時から、

何かのせいをやめた時から、

もたらされたものは、アレンジもせず、

淡々と全部やってきた。

昔の経験から言っても、

辛いんです〜って泣いてる時はそうでもない。

自己憐憫してるだけだから。

変わりたいけど、なになにしちゃうと

言ってる人は、それが快楽なんだよ。

自分で自分を救おうとしてない。

これを言い訳って言ってるの。

それに付き合ってきた自分がいたわけで、

気持ち悪いよね。

足を引っ張るとはこれなのだ。

これが私のカルマだ。罪悪感なんだ。

このカルマは、自分自身が幸福である意志と、

覚悟を確認するようなものだ。

 

本気で変わりたい人は、何からでも学びます。

目の前にある全部のことに反映されてるから、

受け取るものがそこにあるし、

少しずつでもアクションをやります。

 

生霊や、嫉妬の念を浄化しないと、

ほんとうの生活、魂が震える生活に

たどり着かないと、

引っ越しの時のメッセージできてましたが、

生霊が私についてると、

目にそれが現れててわかったんですね。

それがとても薄くなってきたのです。

研究した。どうやったらよくなるか、

何が根本なのか。

生き霊飛ばす人は、しつこい。

他人を呪うことでなんとかしようとしてるから、

人間の魂じゃないよね。

仏教に詳しい人はわかるかもだけど、6道、6界とあって、人間道の下に、修羅、畜生、餓鬼、地獄となる。

転生の話ではあるけど、どの世界を生きてるのかは、私は生き様に出てると思う。

姫の時に、自分を見失い地獄まで堕ちた。

今世はこの転生の昇華があるから、

ここからスタートなわけだ。

その重い波動を持って生まれた。

だけど、魂磨きをして、争いの修羅の世界を卒業し、人間、天上までこれたと思う。

 

 

自愛というのは、慈愛だなと思う。

自分の存在、存在そのものを、慈しみ、

可愛くて愛しい玉のようにおもう。

何かできるからとか、人に喜ばれるからとか、

役に立つからとかでもなく、

ただ存在するだけだけど、可愛くて愛しい。

 

受け入れることは、

私にとって死を意味していた。

 

受け入れるものを選別することが、

自分への無条件の愛なのだ。

 

この再生の時間で、現状を受け入れることは、

生命が復活することを感じていて、

それが癒しになってるのです。

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