I Love Serendipity.

私のツイン体験記

目覚めは痛みをともないます 大きな転換期

自分で立とうとしない人には、

何やっても効かないことがあります。

無力じゃない。

目の前のことは、

全部受け取れることがある。

立ってください。

 

基本相手はできる、やれるという前提で、

愛を持って接しても、

その人自身が自分の存在に対して、

否定してたり見下してたり、無力だとすれば

結論が、わたしはできないとか、

わたしは不幸だとかに、

行き着くように動くからだ。

それで、自分にも、相手にも、

無力だと思い知らせて終わるのだ。

 

どんなに、開く方向のことを届けても、

そこに踏ん張って意識と、行動を伴い、

その人自身が、

エネルギーの方向を変えることをしないと

テコでも動かなければ、

破壊して、終わるような結末に

持っていく強いエネルギーの引きがある。

 

これをカルマって言ってるんです。

 

そのエネルギーを解放するには、

恐れずにそこに飛び込むことなんだ。

 

自分は弱いです、と言うふりをして、

相手のエネルギーを奪う方向に持っていく。

被害者意識の人が、どんなエネルギーを発してるのか自覚がまったくないことが多く、被害者でい続けると、加害者が必要になるわけです。

傷ついた、と言うことで、

相手が攻撃してなくても、傷つくことで、

相手を非難する自分の姿が見えてない。

強そうに見える人にすがりつく時の、そのエネルギーの奪う感じがどれほどかの自覚がない。

自分を生きてない人は、

他者に取り憑く生き霊になる。

幸せにして欲しい、自分の痛みを止めてほしい、

自分ができなかったことを代わりにして、

その高揚感を味あわせてくれ

(夜の睡眠時なんかよくわかりますけど、その時に邪気や生霊がよくきてる。寝ると波動が落ちることがよくあるのです。生霊飛ばしは本人にとってもいいことないわけです)

この争いがとても嫌です。

争いたくないのに、争いに巻き込もうとするから。

その人の幻想(被害者意識や無力感)から、

勝手に加害者に仕立て上げたりしてくるからです。

相手の言うことに傷つくのは、自分が元々そう思ってるからで、ジャッジしてるのは誰なのかと言えば、自分自身なのだ。

それを知るための出来事で、じゃあどうするか?って言ったら、自分の自己否定をやめていくことです。

 

もうわたしはそうではないのに、

この攻防をするのがとても嫌。

 

その状態で、そうしてたいのなら、

それでいいんだよって思うんです。

今の現状が嫌で、自分が変わろうと思う人は、

その方向に本気で舵を切るからです。

 

君はそれでいい。

何も問題がない。

 

 

引き込んでくるものに、

おちずに耐えろということなのか。

 

私は家族も相当な闇だからね。

 

そこに同化することはできないと、

それを率直に父にも妹にも話したことがある。

シリウス先輩は耐えろという派ですね。私もかなり忍耐してきた。愛と光と忍耐)

 

最近、わたしは誰も助けたくない

って思ってます。

誰も助けたくないんです。

その必要がないから。

みんな自分でそれをしてるから、

今ここで、何も問題などないわけです。

 

この問題などないというのは、

ジーザスとも話した。

長老とも話した。

私の魂さんもそれを言ってた。

今、私自身が、本当にそうおもうのです。

 

何にも問題などないんだ。

 

わたしには、学生の時から、

助けてくれって人がわんさかきてたけど、

それは巫女だの人柱などたくさんやってきた、

自分を差し出してきた私の魂の傷なだけで、

自己一致してからは

わたしにしがみつき、わかってほしいと

縋り付く人とは距離をとってきた。

たとえ家族であっても。

(ある有名プロコーチの方も

つい最近同じこと発信してて、共感した)

 

 

その声はあなた自身からの自分への声なのだ。

 

誰もが自分でそれをやってるのです。

それが魂の課題なんです。

自分のことを愛せなかった記憶なんです。

 

それを、今回は開くために

チャレンジしてるわけでしょう?

その痛みをとることを、もう一度愛することを、

誰かにやってもらおうとしてる時点で

カルマになってるわけで。

その反対のやってあげるも、

カルマになるわけです。

 

わたしが伝えるのは、その浄化をするときの

自分の深い部分を見るポイント、問いかけ方、

今の現時点の位置、

意識の向くエネルギーの方向を変えるには

どうしたらいいか?と言うことで、

なんでもやるのは本人です。

 

あなたの肉体であり、あなたの意識であり、

あなたの魂であり、

誰のものでもなく、

自分の魂の願いを叶えるために

生まれてきてるわけです。

それぞれの自我が、担当してきてるわけです。

それに相応しい自我の性質を、

設定してきてるわけです。

だから自分自身を一生懸命やれば、

自分を愛し認めて

自分が持ってきた性質を生かそうとし、

自立して、目の前のことを真剣に取り組み、

やりたいことを叶えていけば

おのずと魂の願いは叶っていく。

誰かの意向を生きるためじゃない。

その願いが、一致してる魂たちとタッグを組んで、

圧をかけるものがいたり、励ますものがいたり、

チーム戦でここにやりにきてるわけです。

だいたいが、大きく器を広げる時は、

圧がかかるものです。

跳ね除けることがテーマのこともある。

受け入れるがテーマのこともある。

 

全員が幸せになるために生まれてきてるのに、

主体性を取り戻さずに、

その選択をしないという決意をしてたら

それが結果として出てくるだけです。

 

最近は、自分で考えずに、

丸投げするのも、自分を放棄してると思う。

委ねると、丸投げはまた違うから。

 

自分を真剣に生きたら、愛そうとしたら、

そんなことはしないからなのだ。

 

自分を責めて泣くよりも、

どうしたらできるだろうか?

という問いになるから。

自分の味方になって、自分を励まして、

自分の元々ある性質を認めて、

どうしたらできるだろうか?ってなる。

どうしたら進めるだろうか?

という問いになる。

 

何かマイナス的なことがあっても、

休むことはあっても、そこから学び、

どうやったら進めるか?になる。

 

自分で切り開くために、

外からのメッセージや変容のトリガー、

アドバイスとして活用するのが

チャネリングメッセや、

セッションやエネルギーワークなどであり、

私自身が受ける方で行った時にも、

セッションで慰められたことは一度もありません。

自分としては、想定外だった

盲点の課題が伝えられることがほとんど。

他者の視点は、だからこそ必要だと思うのです。

だからその時点では、わからないこともある。

わからないをやめて、わたしはわかるはずだって問いかければ、そうなっていく。

 

誰かに同情されても、

そうだねって言われても、

一時的にはいいけれど、

結局自分に空いている穴は、

自分が相手の愛を受け取って、

愛されてると認めなければ

満たされることはないし、

何より自分自身が寄り添い、愛し、

理解することでしか満たされないのだ。

 

自分は無力な存在ではなく、

弱さはあっても、

意志も力もある存在なんだ。

 

自分の内側から引き込む負に負けずに、

そのまま認めて、その葛藤を統合しながら

立つ努力をすれば、

その無力で怖くて不安で、不信感にまみれた

現実を作り出すことをおわりにして、

幸福を選択していけるのだ。

 

自分は大丈夫なんだという、信頼が育つ。

自分で幸福を創造できるんです。

 

その人がそうでありたいのなら、

それを受け入れて認める方が自然だし、

そこで自分の在り方と相容れないのであれば

否定するわけでもなく、

距離を取ることの方が自然です。

これは自分自身の体感覚を、そのまま

認めると言うことだから。

 

今の時空で、すごく起こってることがあって、

少し前まで仲良くしてても

急に距離ができることもしばしばある。

構ってほしくて拮抗状態を作ることにも、

絡みつくような関係を作ることにも、

付き合う気がなく、

あなたはそうしたいんだね。

他に同じようにそうしたい人に

行ってくださいって思います。

あなたの自由だ。

自分で立とうとする人には、力を貸せるけど、

立つ気がなく、立たせて欲しい人とは、

価値観が違いすぎます。

 

その人が深いところで、

アセンションすると決めてるか、

そうでないかにもよると思うのです。

 

恐怖をいかに

乗り越えていくかだなぁと感じてます。

選択なのだ。

その間には、強烈な負も感じることになるから、何度も死にそうになるわけです。

 

わたしには、またテストが来てます。

身体から痛みがポロポロと出てくるような

そういう体感だ。

統合前の葛藤を明確に感じる時のものだ。

コントラストがはっきり出てくる。

 

同じメッセージが、今来てる。

 

私はゼロからの創造に興味がある。

それをおもうとワクワクする。

みてみたい。

全部をゼロにして、そこから

創造の意識から、

何が生まれてくるのかをみてみたいんだ。

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昔から好きな、シラーの詩

「樹木は育成することのない
Der Baum treibt unzählige Keime,


無数の芽を生み、
die unentwickelt verderben, und


根をはり、枝や葉を拡げて
streckt weit mehr Wurzeln, Zweige und Blätter


個体と種の保存にはあまりあるほどの
nach Nahrung aus, als zu Erhaltung seines Individuums


養分を吸収する。
und seiner Gattung verwendet werden.


樹木は、この溢れんばかりの過剰を
Was er von seiner verschwenderischen Fülle


使うことも、享受することもなく自然に還すが
ungebraucht und ungenossen dem Elementarreich zurückgibt,


動物はこの溢れる養分を、自由で
das darf das Lebendige in fröhlicher


嬉々としたみずからの運動に使用する。
Bewegung verschwelgen. So gibt uns die Natur


このように自然は、その初源からの生命の
schon in ihrem materiellen Reich ein


無限の展開にむけての秩序を奏でている。
Vorspiel des Unbegrenzten und hebt


物質としての束縛を少しずつ断ちきり、
hier schon zum Teil die Fesseln auf, deren sie sich


やがて自らの姿を自由に変えていくのである。
im Reich der Form ganz und gar entledigt.」